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zoom RSS 広島の旅〜そのA御幸橋界隈

<<   作成日時 : 2018/06/16 12:21   >>

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どうしても今回の旅で行きたかったところが、原爆の写真で必ず目にする『御幸橋』です。電車に乗って行きますとほんとうに大きな川に架けられている立派な橋でした。
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橋の由来を記した碑によると”御幸橋は市の中心部と宇品地区を結ぶ動脈として大きな役割を果たしている。
日清戦争から第2次世界大戦終了まで、多くの兵士がこの橋を渡り、宇品港から戦地へ赴き、異国の地に眠った”とあります。

8月6日原爆投下から3時間後、爆心地から2、6`離れた御幸橋の北側のたもとに、応急治療を受けるために大勢の被爆者が集まり、その光景を涙ながらにファインダーをのぞき、写真に撮ったのが 、当時中国新聞社のカメラマン松重美人氏で、原爆のすさまじさを後世にも伝えられることになりました。この写真が今も橋のたもとに残されて、多くのお供えもされていました。
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”そのほとんどが衣服が裂け、裸同然、髪の毛は熱風で縮れている、全身に火傷を負い、赤紫にふくれリンゴの皮を剥いたように全身から垂れ下がっていた。人々は群れをなし幽鬼の如く逃げてゆく。さながら地獄絵だった。どうしてもシャッターが切れない。心を鬼にして遠くから一枚目のシャッターを切った”と松重さん。

原爆は人類がもてあそぶ兵器ではない。人類が永遠に制御できないものです。夫の実家も姉妹に犠牲者が出ています。

ついでながら近くに夫の母校があるので行くことになりました。数分歩くと修道中・高校に到着。
時間的に授業中だったのか物音一つしません。
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県下有数の私学の進学校で夫は6年間学び、慶応大学へ進学しました。安保闘争をたたかい、広島の原爆で平和が破壊されたなかで育ち疑問を感じ、まもなく彼は平和を貫くために日本共産党を探して入党、人生の生き方の基礎を決めました。その当時の決意が傘寿となっても一貫しています。

移動には広島自慢の路面電車を利用して町並みを楽しみました。
広島は全国から電車が集まり、さまざまな車種が思いどおりに走っていますが、車との人身事故はほとんどないとのことで、市民は車を使わず市内を移動でき街なかがゆったりしています。
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私の市議時代に交通水道委員会に所属し、あちこちの交通機関を視察に行きました。でも市街地で広島の市電中心の移動はノスタルジックで安心でき、高齢者も移動が自由で一番だと思っていました。

大阪でも私も若いころは市電で通学、通勤していましたよ。その後、地下鉄の発展がありますが、高齢者は地下へもぐらず、次の停留所が見える電車やバスが好まれています。

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