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上野とき子の街かどスケッチ
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元大阪市会議員上野とき子のブログをのぞいていただいいている皆さんありがとうございます。あっという間に過ぎ去っていく日々を大切に愛おしみ、新しい時代の到来のために力いっぱい生きぬいていきたいと思います。
 日常的には、くらしの相談のため事務所を開けていますのでお気軽にお立ち寄り、またお電話ください。
日本共産党都島生活相談所06-6925-2253
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拡がる地震被害 対策を早く!

2018/06/20 20:16
18日の大阪府北部地震は週明けの通勤通学の時間帯が直撃され、被害の状況は日を追うごとに大きくなっています。登校中の小学生が、学校のブロック塀の下敷きになってなく亡くなられる、ほんとうに残酷な事故に多くの人は心を痛められています。
最も安全であるべき学校で、登校歩道として指定させていた塀の下を歩いていた事故なのです。

気象庁は今後1週間ほどは規模の大きい揺れへの警戒をよびかけています。連日の雨も心配です。
地震大国日本には、2000もの活断層があるとされています。

こんどの地震も活断層の集中した箇所での直下型地震であり、人口が密集している大都市でのおそろしいものでした。南海トラフ地震は約70年前に起こった大地震でしたが、100年周期で動くと言われています。
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ですから、今回の地震が、南海トラフ地震の前兆をはらんだものか、上町断層帯地震を誘発するものかなど早急に調査研究し、そして対策が必要です。激しい地震の瞬間が起きてからでないとわからない、という状況を放置してはだめだと思います。

火山地震だらけの島国日本にどうして危ない原発が必要なのか、事故があっても巨額な資金が必要で、同時に人類を破壊するものです。
平気な顔で「死の証人」よろしく原発を世界へ売り歩く アベ首相に原発を廃止して地震の研究にもっと力を入れるべきですと叫びたい。


共産党は救援本部を立ち上げています。被災者の皆さんの声をよく聞き救援の手を差し伸べてください
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広島の旅〜C爆心地

2018/06/19 13:55
昨夜は靴をベッドのそばに置き、いつでも外へ出られるようにしましたが、余震があったりなかなか熟睡できませんでした。朝早く、埼玉の高校時代の友人から見舞いの電話をいただきました。

さて、広島の旅を続けます。最後の日は爆心地、原爆ドーム周辺をまわりました。
初夏の青葉若葉が目に沁みるいいお天気です。
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テニアン島から飛来した『エノラ・ゲイ号』によって人類史上最初に使われた原子爆弾はこの上空580mで炸裂。約3000度から4000度の熱線と放射線をうけ、ほとんどの人が瞬時に命を奪われました。

爆風が真上から突き抜けたため「産業奨励館」のドーム型の鉄筋と外壁だけが残りました。鉄が溶ける温度は1550度ですから、一瞬のうちです。募金により補強工事がされ、1969年全国から国民の募金によって保存されました。1996年には核兵器廃絶を込め「ヒロシマ ピース メモリアル」としてユネスコ世界文化遺産に登録されました。大勢の修学旅行生に交じって、外国人も大勢訪れていました。
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平和大橋西詰めに『広島市立高女原爆慰霊碑』があります。夫の6歳上の姉禮子が13才の2年生の時、橋の周辺で建物疎開の作業を開始した途端に爆死。生徒541人、職員7人などふくめ676人が炎とともに燃えつきました。

連合軍占領下には「原爆」という字が使えなかったため、碑の中央の少女がもつ箱には、原爆の相対性理論の
原子力エネルギーE=MC2が刻まれています。市女は学制改革で現在は市立入船高等学校となっています。
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当時、父母は焼け野が原を娘を捜し回ったそうですが、「あ〜この世の光景ではありゃ〜せんかった・・・」と多くを語りたがらなかったのです。「朝体調が悪く、朝食を食べずに行った・・・・」と母。
犠牲者の子どもたちの名前が彫ってあります。姉の上野禮子は3段目右端です。
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修学旅行の子どもたちが大勢この爆心地を訪れ、平和ボランテイアさんのお話を熱心に聞いています。
”核兵器をぎょうさん持ったら戦争に勝てるんとちがうけんね。”やさしい広島弁が響きます。
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峠三吉詩碑の前では、各学校が必ず立ち止まり詩を群読していました。

被爆した青桐も背丈も伸び、青々と生い茂り、アオギリ2世も隣で元気に育っていました。
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元安川の流れを見ながら、一休みしました。
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書ききれない広島の旅でしたが、来年はご先祖の50回忌、30回忌などまとめて行われるそうですから、またの機会にヒロシマ記を続けます。ありがとうございました。

私達も平和のために捧げる一生でありたいと願っています。




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キャ〜地震や〜!

2018/06/18 20:11
朝食を終えて立ちあがろうとした瞬間、悪魔の一撃ともいうべき震度5強の地震に見舞われました。
阪神大震災より強烈だと実感しました。地震は災害でも最も怖く、姿が見えないので不安です。

テレビは即、地震速報に切り替わり、震源地は大阪北部で深源の深さ約13キロ、マグニチュードは6・1と推定された。都島区は震度5強ということですから、阪神の4強より、強烈でした。
3人が亡くなられ、けが人も260人ほど出ているとのことです。(午後8時現在)
心から哀悼とお見舞いを申し上げます。

これだけか?と近所のみなさんと心配顔で集まっていましたが、やはり1週間くらいは余震に気をつけよということでした。被害はどうかなとあらためて家の周りを見ました。1階は散らばってなく、2階の寝室は大きなCDカセットが床に落ち、本も重なって落ちていました。

関大の河田先生が説明されていましたが、今回の地震は有馬高槻断層帯と上町断層帯、生駒断層帯が北の端で集まっている所が所が動いた、枝断層もあり全体が動いたため大きかったと説明されました。
Mが1差が出ると32倍の威力になるそうです。ここ数日は出歩かないようにとの注意でした。
市内は水、電気、ガスが出るので、とりあえず安心ですが、今後のことが心配です。。

孫たちは、高校や大学に通ったため、途中で電車を下ろされ、学校は休みのため、歩きとおして家にたどり着いたということです。若いからできたのですね。
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どうか、地震様、納まっていただきますよう祈るばかりです。

(広島Cは明日に延期します)
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広島の旅〜そのB平和資料館

2018/06/17 17:00
ホテルの15階がモーニング会場、キラキラ輝く朝のみずみずしい景色が眼下に広がります。美しい!
元安川の上流には、原爆ドームがしっかり佇んでいます。広島は5つの川が流れ広島湾にそそぎます。
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これらの川は8月6日朝、天地がひっくり返る轟音に襲われ爆死。
多くの人が熱さに耐えかねて飛び込んだところです。何人が死んだか正確にはわからないそうです。川は死体で埋まり、海へ流れ・・・・・

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眼下の橋は「平和大橋」。わたると右に「平和資料館」です。本館は現在耐震工事とリニューアル中で来年4月に完成します。
東館には多くの修学旅行生が訪れています。静かに展示物を見て、すかさずメモを取っています。
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原爆投下前の写真。左側の建物が広島市民に親しまれていた「産業奨励館」です。丸いドームが確認されます。ここが投下標的だったのです。真上のために爆破がまぬがれ、「原爆ドーム」となりました。
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この写真は、夫よりも5才くらい上の生徒たちで学童疎開前のいきいきした表情が見られます。
夫の母校である幟町尋常小学校のクラス写真です。

今年は新しく被災市民から寄せられた遺品が多く並んで悲しみでいっぱいです。
血に染まったボロボロになったワンピースです。どんなにか愛らしい少女だったことでしょう。
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3人の中学生も建物疎開に駆り出され、この3人のゲートルや上着、ズボンなど遺品をを集めて、死亡当時の姿にされました。この話も胸がつまります。
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夫が修学旅j校で通りがかった5年生の少年達に話しかけました。
「建物疎開という防火地帯をつくるために建物を壊す仕事にこのような小さい中学生も駆り出されたのよ。私の姉も女学生で参加し、全員が頭上に原爆が落ち、全滅。骨さえ見つからなかったんよ」と話しました。

少年達は自分たちのことと感じ、おじいさん(夫)に「握手させてください」と手を握り「ありがとうございました」と。
おじいさんも少年達との対話をたいへん喜んでいましたよ。

広島記が長くなりますので、明日、広島の旅Cに掲載させていただきます。
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広島の旅〜そのA御幸橋界隈

2018/06/16 12:21
どうしても今回の旅で行きたかったところが、原爆の写真で必ず目にする『御幸橋』です。電車に乗って行きますとほんとうに大きな川に架けられている立派な橋でした。
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橋の由来を記した碑によると”御幸橋は市の中心部と宇品地区を結ぶ動脈として大きな役割を果たしている。
日清戦争から第2次世界大戦終了まで、多くの兵士がこの橋を渡り、宇品港から戦地へ赴き、異国の地に眠った”とあります。

8月6日原爆投下から3時間後、爆心地から2、6`離れた御幸橋の北側のたもとに、応急治療を受けるために大勢の被爆者が集まり、その光景を涙ながらにファインダーをのぞき、写真に撮ったのが 、当時中国新聞社のカメラマン松重美人氏で、原爆のすさまじさを後世にも伝えられることになりました。この写真が今も橋のたもとに残されて、多くのお供えもされていました。
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”そのほとんどが衣服が裂け、裸同然、髪の毛は熱風で縮れている、全身に火傷を負い、赤紫にふくれリンゴの皮を剥いたように全身から垂れ下がっていた。人々は群れをなし幽鬼の如く逃げてゆく。さながら地獄絵だった。どうしてもシャッターが切れない。心を鬼にして遠くから一枚目のシャッターを切った”と松重さん。

原爆は人類がもてあそぶ兵器ではない。人類が永遠に制御できないものです。夫の実家も姉妹に犠牲者が出ています。

ついでながら近くに夫の母校があるので行くことになりました。数分歩くと修道中・高校に到着。
時間的に授業中だったのか物音一つしません。
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県下有数の私学の進学校で夫は6年間学び、慶応大学へ進学しました。安保闘争をたたかい、広島の原爆で平和が破壊されたなかで育ち疑問を感じ、まもなく彼は平和を貫くために日本共産党を探して入党、人生の生き方の基礎を決めました。その当時の決意が傘寿となっても一貫しています。

移動には広島自慢の路面電車を利用して町並みを楽しみました。
広島は全国から電車が集まり、さまざまな車種が思いどおりに走っていますが、車との人身事故はほとんどないとのことで、市民は車を使わず市内を移動でき街なかがゆったりしています。
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私の市議時代に交通水道委員会に所属し、あちこちの交通機関を視察に行きました。でも市街地で広島の市電中心の移動はノスタルジックで安心でき、高齢者も移動が自由で一番だと思っていました。

大阪でも私も若いころは市電で通学、通勤していましたよ。その後、地下鉄の発展がありますが、高齢者は地下へもぐらず、次の停留所が見える電車やバスが好まれています。
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広島の旅〜その@きょうだいを訪ねて

2018/06/15 22:42
夫のきょうだいも90代になり大分弱ってきているので、今のうちに会っておきたい、お墓参りもしておきたいと2泊3日の広島の旅に出ました。
広島は被爆地でありどのように街が発展しても、被爆の影は深いものがあります。追って、報告します。

長兄91才、姉90才、次兄82才、妹77才、夫80才でいつ会えなくなっても不思議ではなく、元気なうちにと訪問、みんな体は弱っていても頭はしっかりしておりほっとしました。妹夫婦は私たちと同年齢で遠慮ない間です。

お墓参りをし、両親はじめ亡くなった先祖に感謝の気持ちを捧げました。この安楽寺というお寺には被爆イチョウが傷を負いながら青々と茂り、寺の山門屋根を突き破っています。爆心地より2`離れており、樹齢は100年を超えるでしょうか。
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 (妹夫婦と会食をしました)
長兄は老人ホームを創立しましたが、今は引退です。
次兄はこのホームに入所しています。
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  (広島球場近くの施設。以前は夫ら家族や会社があった所です)
広島県の北部にJR可部線が住民運動で2駅復活するというめずらしい鉄道があります。
可部は幼かった兄妹が戦火から疎開していた場所で、夫が学卒後就職していた地です。それと姉夫婦がいるのですが、住所を確かめず来たもので、仕方なく郵便局へ聞きますと、局長さんが案内してくれ姉にも会えました。
その瞬間がほんとうに嬉しいことでした。
画像</div>(駅のホームで兄妹です)
  今日は帰宅も遅かったもんで、明日この続きを書くということにさせてもらいます。
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ブログお休みします

2018/06/13 09:30
毎日私のブログを閲覧していただいているみなさん、ありがとうございます。
私事都合で2日ほどお休みさせていただきます。
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