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zoom RSS 広島の旅〜C爆心地

<<   作成日時 : 2018/06/19 13:55   >>

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昨夜は靴をベッドのそばに置き、いつでも外へ出られるようにしましたが、余震があったりなかなか熟睡できませんでした。朝早く、埼玉の高校時代の友人から見舞いの電話をいただきました。

さて、広島の旅を続けます。最後の日は爆心地、原爆ドーム周辺をまわりました。
初夏の青葉若葉が目に沁みるいいお天気です。
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テニアン島から飛来した『エノラ・ゲイ号』によって人類史上最初に使われた原子爆弾はこの上空580mで炸裂。約3000度から4000度の熱線と放射線をうけ、ほとんどの人が瞬時に命を奪われました。

爆風が真上から突き抜けたため「産業奨励館」のドーム型の鉄筋と外壁だけが残りました。鉄が溶ける温度は1550度ですから、一瞬のうちです。募金により補強工事がされ、1969年全国から国民の募金によって保存されました。1996年には核兵器廃絶を込め「ヒロシマ ピース メモリアル」としてユネスコ世界文化遺産に登録されました。大勢の修学旅行生に交じって、外国人も大勢訪れていました。
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平和大橋西詰めに『広島市立高女原爆慰霊碑』があります。夫の6歳上の姉禮子が13才の2年生の時、橋の周辺で建物疎開の作業を開始した途端に爆死。生徒541人、職員7人などふくめ676人が炎とともに燃えつきました。

連合軍占領下には「原爆」という字が使えなかったため、碑の中央の少女がもつ箱には、原爆の相対性理論の
原子力エネルギーE=MC2が刻まれています。市女は学制改革で現在は市立入船高等学校となっています。
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当時、父母は焼け野が原を娘を捜し回ったそうですが、「あ〜この世の光景ではありゃ〜せんかった・・・」と多くを語りたがらなかったのです。「朝体調が悪く、朝食を食べずに行った・・・・」と母。
犠牲者の子どもたちの名前が彫ってあります。姉の上野禮子は3段目右端です。
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修学旅行の子どもたちが大勢この爆心地を訪れ、平和ボランテイアさんのお話を熱心に聞いています。
”核兵器をぎょうさん持ったら戦争に勝てるんとちがうけんね。”やさしい広島弁が響きます。
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峠三吉詩碑の前では、各学校が必ず立ち止まり詩を群読していました。

被爆した青桐も背丈も伸び、青々と生い茂り、アオギリ2世も隣で元気に育っていました。
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元安川の流れを見ながら、一休みしました。
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書ききれない広島の旅でしたが、来年はご先祖の50回忌、30回忌などまとめて行われるそうですから、またの機会にヒロシマ記を続けます。ありがとうございました。

私達も平和のために捧げる一生でありたいと願っています。




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